昭和44年04月12日 夜の御理解
是はよくあの、申します事ですけれども、神様って皮肉なお方だなぁと、言ったような事を申します。本気で「ひとつ腹を立てんぞ。」と言う様な修行をさして貰おう、とこう思いますとね。又それを願いますとね、ほんとに腹が立つ様な事が起きて来るんですよ。そういう意味で神様は皮肉と言うか、それでも、本人がそういう修行をしたいと言うから、させて下さると言うのですから、本当は有難いのですけれどね。
そういう時に言うなら、神様は皮肉だなと言う様な事を申しますけれども。そこに、神愛を感じる信心をさして貰わにゃいけませんね。今、御祈念前に愛子がお届けするんです。最近「腹を立てん」という修行をしよると言う訳なんです。所がもう今日なんかは、私も側で見ておってもあの、周囲の誰でもが腹を立てるだろう、と言った様な事があるんですけれどね。その事をやっぱ自分、只今お届けするんですけれども。
今日私、それ聞かせて頂きながら、聞きながら私も腹が立つ様な気がするんです。したらあのいわゆる「黙って受けてね、黙って与える」と言うあの御教え。天地の親神様の心だと。そういうお心を体して、お互い日々信心の稽古をさして貰ってる。もう素直と言うのが「素直心」という、お道の信心で言う「素直心」というのは、唯「はい」と言うて素直に聞くだけではなくてね。
今、ただ今申しますように、この「黙って受けれる」というだけの素直さじゃなくて、それが黙って与えられるもの。それがお道の信心で言うほんとの素直さ。その素直さであってこそ始めて、雲の上までも登る道が付くのですよ。只黙って受けて辛抱さえしておればいい、というのじゃない。黙って与えて黙って受けて黙って与えるんだと。お届けさして頂くのが、私まで腹が立とうとする時ですたい。その事を頂いてから、ははぁほんな事そうすると、むしろその何と申しますかね。
「腹を立てん修行」と云う事よりもね、そのそれが、もうひとつ先の方へ進んでおる。黙って受けるだけじゃない、それを矢張り黙って与えておれれる、信心の中からね、私は信心さして頂く者のいよいよ、喜びというものを、感じさして貰える様な、信心頂かにゃいけんな、と云う事ですけれど、なかなか迂闊にしておりますとね、人が腹立ったと言うて、「そら腹が立った。」と言うてから、聞いた者まで腹が立つと言った様な事にまで成り兼ねないんです。
ですからね、その腹を立てん修行をさして貰うと、ほんとに神様がその事がどの様に素晴らしい事か、と云う事を神様も御承知ですから、本気でんならどの様な場合でも腹を立てるなよ。立てんだけでは、立てないだけではない。それをむしろ反対に祈って返せれる、黙って与えていけれる信心をもそっから頂かないかんのぞ、と言う様なものを、只今愛子のお取次ぎをさして貰ながら感じたんですけれどね。
もう繰り返し頂く事で御座いますけれども、ここんところを頂いて、いよいよ神様の心を心として、天地の心を自分の心に頂いて行けれるおかげを頂いて行きたい。もうここにひとつ、焦点を置いて精進さして頂きゃ、もう信心は、素晴らしい信心になる。頂いて行けれる。大きな信心が頂いて行けれると言う風に思いますね。
どうぞ。